事件名
革命(ハンガリー動乱)

国 名

ハンガリー
年月日 1956年10月〜12月
詳 細

ラジオから響きわたった銃声が、人々の心を撃った。

1956年10月23日、民主化のための声明文を読み上げるためにブダペスト・ラジオに集結した群衆に向けて、ラジオ局を警備していたソ連の秘密警察が警告なしに発砲、数名が死亡する。激怒した人々はラジオ局の建物内に突入し、局内に留まっていた秘密警察隊員に反撃する。銃声は、ラジオを通じて国中に響き渡った。その後にBFMはクラシック音楽に切り替えられたが、数時間後には、軍隊や警察官のシンパから武器が集められる。スターリン時代から続くソ連の傀儡政権による高圧的な政策に対する人々の憤りが一気に爆発し、ブダペストは、民主化を求める民衆による武力蜂起の舞台となる。

しかし、火炎瓶やライフルといった武器だけでは、間もなく送り込まれるソ連軍の2500台の戦車と1000台の装甲車という圧倒的な武力に対しては歯が立たず、最終的には数千人のハンガリー人が犠牲者となる。民主化に理解を示し10月27日にナジ民族戦線政府を樹立しワルシャワ条約機構からの脱退を宣言した穏健派のナジ・イムレ首相も、11月4日のソ連軍の本格的な軍事介入によりやむなくユーゴスラビア大使館に亡命するが、その後連行され処刑される。国の将来に絶望し、西側に亡命したハンガリー国民は20万人にも達した。

これは「失敗した革命」の歴史である。しかし、ハンガリーの人々にとっては、現在でも誇りの歴史だ。2002年にブダペストに開館した博物館『テラーハウス(Terror Haza)』では、ハンガリー動乱で命を落とした人々の名前が英雄として列記されている。例え「敗北の記録」だとしても、自由のための戦いの記録は、ハンガリー人にとっての「誇りの記録」なのである。

第二次大戦中にはナチスにより日独伊三国同盟に取り込まれ戦場となり、大戦後もヤルタ会談により共産圏に加えられスターリン化の波に飲み込まれ、スターリンの死後に勃発したハンガリー動乱も武力介入により弾圧され失敗に終わる。ハンガリーは常に周辺の強国に翻弄されてきた国だ。

しかし、ハンガリーの人々の自由への意志は潰えることはなく、1989年のオーストリア国境の開放へと実を結び、この時に鉄のカーテンを切断し東ドイツ市民を西側へ逃したことが、ベルリンの壁崩壊へと繋がってゆく。1990年には、社会主義から自由主義へと転換。その後も民主化は進み、「ソ連に対する反乱」とされていたハンガリー動乱は「民主化を求めたハンガリー人による市民革命」と再評価され、政府も処刑されたナジ・イムレ元首相の名誉を回復する。1992年には、エリツィン・ロシア大統領が、ハンガリー動乱におけるソ連の軍事介入を謝罪した。