事件名
GAM掃討作戦

国 名

インドネシア
年月日 2003年5月19日〜
詳 細

「GAMは怖くない。武器を隠し持っているんだ。GAMはどこにでもいて、住民を守ってくれる強い味方なんだ」

2003年5月17・18日、東京で行われたインドネシア政府と独立派武装組織自由アチェ運動(GAM)との和平交渉は決裂に終わる。インドネシア政府が提示した三つの条件「独立意志の破棄」「自治権拡大での妥協」「武器提出の順守」、更に国家警察が16日にバンダアチェで交渉に出発しようとしたGAM幹部5人を逮捕(その後釈放)したことに対する反発などから、GAM側が交渉の継続を拒否した形だ。

翌19日未明メガワティ大統領は、 アチェ特別州全土に事実上の戒厳令である軍事非常事態宣言を布告、国軍によるGAM掃討作戦が開始された。国軍は、5万人の兵力を投入、同時にGAMの軍事拠点へのロケット攻撃を開始した。当初6ヶ月で終了とされていたが、山岳でのゲリラ戦に作戦は難航し、11月に入り、終わりが見えないまま更に6ヶ月の延長が発表された。国軍側の発表では、これまでに殺害したGAM兵士は1600人、投降兵は594人、約1万人の避難民が今も州内でテント生活を送っている。避難民に関しては、10万との情報もある。

「東ティモールでできて、アチェでできないはずがない」、 対話路線の推進者であったワヒド前大統領の言葉も空しく、和平交渉は最終的には挫折する。インドネシアから分離独立した東ティモールの住民のほとんどがキリスト教徒であり、西洋諸国からの独立支持を得やすかったことからすると、ほとんどがイスラム教徒であるアチェでの状況はかなり違うと言える。1万7千以上あるインドネシアの島々がイスラム過激派の戦士を訓練するための格好の場所になることから、9・11以後、米国は反テロへの協力をインドネシアに求めている。

また、和平交渉の挫折は、国軍の政治的発言力の大きさとも無関係ではない。アチェで住民投票を行うとのワヒド大統領の宣言の数時間後には、軍幹部がテレビに登場し「これ以上、住民投票を実施する方向に進むと、非常に危険な状態になる」と警告し、軍事クーデターの可能性も示唆していたという。国軍やインドネシア政府の側からすれば、アチェの独立を認めれば他の地域の独立も認めざるを得なくなり、それはインドネシアの解体を意味するからだ。

しかし一方で、「GAMの居場所を知らない」と言っただけで殴られるなど、国軍や警察による一般住民に対する目にあまる暴力行為、人権侵害などが指摘されている。1998年以降、500校近い学校が焼かれたとされ、裁判所や病院などの公共施設の破壊も続き、住民生活に支障が出ている。 現在、掃討作戦に非協力的な村の焼き打ちも増加傾向にあるという。


アチェは特別自治州で自治があったが1950年に北スマトラ州に併合されたことから自治を求めて武力闘争が起こった。1959年に特別の自治権・慣習法が保証され、武力闘争は一時治まった。中央政府はこの地域にジャワ人・スマトラ人を送り込む移民政策を強行したことで、再び反発を招き、また、解放闘争の自由アチェ闘争家の摘発も続けられた。これに反発して1976年、アチェ・スマトラ民族解放戦線が自由アチェの独立宣言を発した。1989年、自由アチェ運動が展開され、兵営を総攻撃した。1990年以降、インドネシア国軍が鎮圧に乗り出し、7月事態は正常化に向かい、1991年、政府・軍当局が自由アチェの壊滅を宣言した。同年、運動指導者は破壊活動のかどで懲役9年の刑を受けた。1989〜1992年に約5000人のアチェ人が殺害された。依然、抵抗運動は続けられ、それに対する弾圧の為アチェ人はマレーシアに逃れ、スウェーデンに亡命政府を樹立した。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)