事件名
モスクワ劇場占拠事件

国 名

ロシア
年月日 2002年10月
詳 細

メディア統制は武力戦術のひとつである。

この事件の主謀者たちは、チェチェンの現状を、メディアを通して全世界に伝えることに、自らの命を賭けた人々だったのかもしれない。しかし、彼らの言葉は一言もメディアに乗ることなく事件は終息する。

2002年10月26日、身体に巻き付けた爆弾や自動小銃などで武装した約40名のチェチェンゲリラが、公演中のモスクワの文化宮殿劇場に侵入、約800名の観客および俳優・スタッフを人質にとり立て籠った。事件発生後間もなくロシアは、メディアを完全にシャットアウトし事件に関する報道も禁止する。その上で特殊部隊を投入、同時に下水や空調ダクトから劇場内にガス兵器を注入した。ガスにより戦闘能力を失ったゲリラは、その場で全員射殺された。事件発生から4日目で人質は解放されたが、そのほとんどがガスの影響で朦朧状態、あるいは意識不明のまま病院に運ばれた。劇場内でのゲリラによる人質の殺害がほとんど無かったにもかかわらず、ガスの後遺症などにより最終的には120名が死亡した。(インタファクス通信(2002/11/5現在)によると、犠牲者は120人。ガスを吸引し病院に運び込まれた元人質のうち501人が同日までに退院したが、なお148人が入院中。犠牲者のうち118人はガスが原因。)国際法で禁止されている化学兵器を使用した疑いもあるとされたが、ロシア当局は使用したガスの種類の発表はしていない。必ずしも人命が最優先されるとは限らないということだ。

「ロシアのテレビは嘘をついている。劇場を占拠していたチェチェン人たちは、モスクワ市街でチェチェンの紛争終結を求める集会を開催することを要求していた。ロシアのテレビ局の報道とは異なり、実際には多くの人質が集会の開催を支持していた」との、元人質による証言もある。

埋蔵量世界一といわれるカスピ海沖油田のパイプラインを押さえるチェチェン共和国の指導部を倒そうと1991年11月、ロシアのエリツィン大統領はKGBを使って、この政権を打倒しようと企てたが、戦車部隊はチェチェン側にやられ、情報局員ら傭兵が多数捕虜となり作戦は失敗した。エリツィン大統領は1994年12月、チェチェン共和国の首都グロズヌイに向け、ロシア軍を大量投入しチェチェン戦争が勃発した。ロシア軍の激しい空爆により約6〜7万の市民が犠牲となった。しかし、チェチェン側の抵抗が激しく、ロシアのレべジ国家安全保障会議事務局長がチェチェン側と交渉し、独立問題の決着を2001年末まで先送る事で合意し全面停戦となった。しかし、1999年5月、チェチェンのイスラム武装勢力が、ダゲスタン共和国に侵攻した事で、ロシア軍は軍事行動を開始した。2000年3月にロシアにプーチン大統領が誕生し、同年6月にチェチェン大統領の押し進める共和国政権を排除したことから、紛争が再び活発化した。