事件名
ウズベクの人種暴動

国 名

ソ連
年月日 1989年6月
詳 細

「メスヘチア・トルコ人」は、 もともとグルジア共和国のトルコとの国境地帯に住んでいたが、 第二次大戦中(1944年)に敵国トルコへのスパイ活動を危惧したスターリンにより強制的に移住させられたトルコ系民族である。綿花栽培しか許されていなかったウズベク人に対し、彼らは園芸栽培を共産党から許可されていた。ソ連邦の中でも極めて低賃金の収入しか得られなかったウズベク人は、特権的に与えられた栽培の権利により自分達より高収入を得る者が多いメスヘチア・トルコ人に対しかねてから悪感情を抱いていた。87年から始まった「ペレストロイカ」以降、衛星国各国では共産党時代より更に貧富の差が拡がっていった。その結果、疑心暗鬼による噂、流言飛語が飛び交い民族間にもとから在った火種に引火し各地で衝突事件が勃発した。ウズベクでは、フェルガナ州「ブカ」で起こった「ウズベク人vsメスヘチア・トルコ人」の衝突が飛び火し、「パルケント事件」(西側は無論、ソ連内でも報じられる事が殆ど無かった。)が起こる。抗議デモに参加していたウズベク人を制圧するために道路が封鎖され外部と遮断された状態となったところで、群集に対しヘリが催涙ガスの爆弾を落とし、待機していた軍の二連隊が無差別発砲を行った。その3ヶ月後に本事件が起こる。内務省の国内軍による「ウズベク人虐殺事件」である。


1989年6月、ウズベク共和国フェルガナ州でウズベク人とトルコ系住民メスヘチア・トルコ人が1週間にわたり衝突し、90人以上が死亡し、治安部隊1万2000人が派遣された。このフェルガナ州は民族構成の違いからウズベク共和国から分離独立の動きがある。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂刊(2000年)より抜粋)