事件名
カンボジア内戦

国 名

カンボジア
年月日 1975年4月〜1979年1月
詳 細

ポル・ポトは、 狂気とも思える過激な共産主義化政策を押し進めた。1975年に首相となったポル・ポトは、すべての学校や工場施設を破壊し、都市住民全員を農村へと強制移住させ、貨幣制度も廃止する。 休日も無く、音楽や映画、恋愛までもが禁止された。クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が政権をとった4年の間の死者数は250万人。これはカンボジア全人口の3分の1に当たる。


1970年成立のロン・ノル政権は、1975年4月南ベトナムのサイゴン陥落と時を同じくしてカンボジア共産党〈ポル・ポト派〉のプノンペン攻略で倒れカンボジアはクメール・ルージュ〈ポル・ポト派〉の支配へ移った。これは、クメール・ルージュが中国の支援を受けて解放闘争を展開したことの成果でもあり、国王シアヌークは北京派としての国際的立場の強化に与った。1975年9月、シアヌークは北京から帰国したが、国土はアンカーという革命組織の支配下にあり、シアヌークを始めシアヌーク派はその活動を封じられ、シアヌークは1979年1まで事実上軟禁状況に置かれた。カンボジア王国政府は、1976年4月民主カンボジア政権へ移行し、1977年12月民主カンボジア政権はベトナムの干渉に対しベトナムと断行したが、78年12月、ベトナムの支援で救国民族統一線戦が設立され、ベトナム軍とともに救国軍が79年1月プノンペンを攻略し、カンボジア人民共和国を樹立した。これに対し、中国は同年2月、ベトナムへの懲罰としてベトナム北部国境を攻撃した。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)