事件名
イスラエルのパレスチナ難民大量虐殺

国 名

レバノン
年月日 1982年9月
詳 細

「私は、国際的原則と呼ばれているものを知らない。私は、この地に誕生するパレスチナの子供を全て焼き尽くすことを誓う。パレスチナの女と子供は男よりも危険だ。何故なら、パレスチナの子供たちが存在するかぎりジェネレーションは続くが、男の危険度は限定されているからだ。もし、私がイスラエルの一般市民で、パレスチナ人に会ったとしたら、私は彼を焼き殺すことを、彼を殺す前に苦しませることを誓う。私は一撃で750人のパレスチナ人を殺した。」(アリエル・シャロンとオウズ・メーハン将軍とのインタビュー、1956年、ラファー〔現ガザ地区〕にて)


1982年6月のイスラエル軍のレバノン侵攻後、9月、イスラエル軍制圧下のベイルート南部のサブラとシャチラの難民キャンプで319人(PLO発表では1800人以上)のパレスチナ武装難民が虐殺された。特別司法調査委員会は事件の責任者としてシャロン国防相他2名の軍幹部の解任または辞任を要求。虐殺犯人は右派キリスト教徒ファランヘ党民兵と断定されたが、シャロン国防相ら軍首脳が事件を回避するための措置をとらずに責務違反であるとされた。ベギン首相は、調査委員会の勧告を受諾することを決定し、シャロンは国防相を解任されたが、無任所相として内閣に残った。この際、ベニンの辞任を要求するデモに手榴弾が投げ込まれ1人が死亡した。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)