事件名
中印国境紛争

国 名

南アジア域外
年月日 1962年10月〜11月
詳 細

2002年、中国は英国に対し「エベレスト」の名称をチベット名「チョモランマ」への改名を正式に要請した。「英国の植民地統治者が誤った名前を与えたことで、チベットの聖なる山が汚された。」というのである。1949年、中国は「中華人民共和国」の成立と共に「欧米からのチベットの解放」を大義とした人民解放軍がチベットに侵攻した。1958年〜59年には再び中国はチベット人と激しく衝突し、何万ものチベット人が殺される。法王ダライ・ラマはラサを脱出、インドに亡命し、北インドに亡命政府を作る(通称「チベット事件」)。これにより、中印の対立が一気に表面化し、国境地帯で武力衝突が起きるようになった。1962年10月、アメリカの軍事援助を受けたインド軍と中国による大規模な戦争に発展したが、インド軍が敗走し、1ヵ月後に中国は一方的停戦と撤退を発表した。1966年、文化大革命の開始と同時に、チベット各地で寺院などの文化遺産の徹底的な破壊と収奪が始まる。


インドと中国は、1954年4月平和第5原則の中印通商・交通協定に調印したが、同年9月には国境衝突が生じた。1958年〜59年の以後、国境対立が公然化し、60年4月両国間の首脳協議にもかかわらず、61年5月ラダク地区での両国軍の小競り合いとなった。この係争地区は、インドと中国の国境の東・中・西部にわたり、1914年3月のシムラ協定のマクマホン・ライン並びに1842年8月29日条約など従順の国境条約の有効性、伝統的支配層の帰趨にかかわっていた。加えて大国意識により事態が増幅されていた。1962年6月に中印協定が失効し、10月、中国軍が大規模に侵入した。10月26日、インドは非常事態宣言を発動し、米国はインドを援助した。11月インド軍は敗走し、11月21日中国政府は一方的に停戦を宣言した。この紛争での戦死者は322人、負傷者は657人、行方不明者は4296人に達した。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)