事件名
クルド戦争

国 名

イラク
年月日 1983年5月〜1988年9月
詳 細

イランイラク戦争の渦中にある88年3月、イラクは、北部のスレイマニア州ハラブジャでの戦闘で、イランと協力してゲリラ闘争を続けていたクルド人反政府組織に対し化学兵器を使用、5000人(一説によると2万人以上)が死亡したとされる。 使用されたのは、びらん剤であるマスタード、神経剤であるタブン、サリンなどである。当時、イラン型のイスラム革命の周辺国へ波及をくい止めるため、フセイン政権の軍事力強化に手を貸していたアメリカは、イラクの化学兵器使用を黙認していた。生物/化学兵器の原料を輸出していたとの情報もある。5年さかのぼる83年には、レーガン政権の中東特使であったドナルド・ラムズフェルドが、フセインに関係改善を申し入れている。「イラク軍の化学兵器によるイラン兵の犠牲者の数は8万に上る」と、CIAで推定されていたにもかかわらずである。ラムズフェルドは、2001年1月ブッシュ大統領のもと国防長官に就任、2003年のアメリカによるイラク戦争の推進者のひとりとなる。戦争の大義は、「フセイン独裁政権を倒し、生物・化学・大量破壊兵器の脅威を取り去るため」である。


イラクのクルド人問題は1918年5月英軍がキルクークを占領し、クルド人政権を樹立したのに始まる。しかし同政権は、トルコ軍の侵攻で崩壊し、以後、幾度となくクルド人の自決闘争が続いた。1983年5月イラクとトルコはクルド・ゲリラ掃討のため、クルド反政府分子の追跡権に合意し、トルコ軍のイラク侵攻となった。これに対し、7月クルド分子はイランの支援を受けて抵抗を続けた。1987年5月北部スレイマニアのクルドが蜂起して以後、クルド反乱はイラク全土に拡がり、1988年3月〜9月イラク軍はスレイマニアで大規模な鎮圧作戦を発動した。この際、9月8日米国はイラク政府による科学兵器の使用に抗議した。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)