事件名
チベット動乱

国 名

中国
年月日 1959年3月
詳 細

数字は、チベットと中国人民解放軍との衝突による死者数である。膨大な数である。しかし、 誰もが9.11での死者数3234人の方が、重大な数と感じるのではないだろうか? つまり、情報の扱われ方によって命の重さも決定されるのである。


チベットでは1951年5月の平和協定以後、57年のテュシ・ガントゥックの反乱(人民解放軍が反乱軍5500人を殲滅して終息。58年の青海反乱(人民解放軍が反乱軍16万6000人を殲滅して鎮圧。)、同年の循化県反乱(チベット人人口1万1000の町で2500人が逮捕され鎮圧。)に続き、59には,3万人のデモが行われ人民会議でチベット独立宣言が採択された。以後、チベット支配層はダライ・ラマを擁して反中国暴動を起こし、テュシ・ガントゥックなどの義勇軍も組織され、遊撃行動がとられた。人民解放軍が投入され、9万3000人が殲滅され、4月に平定された。ダライ・ラマはインドへ亡命し、中国の行動を国際世論に訴え続けた。1965年9月、チベット自治区が成立した。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)