事件名
学生紛争

国 名

日本
年月日 1968年3月〜12月
詳 細

「安田講堂落城は何か大きな夢が断たれた瞬間だったのではないか?」当時の私は子供心にそう思った。学生と機動隊が争う映像、「無駄な抵抗はやめて、すぐに出てきなさい」というフレーズを何度聞いただろうか、ニュースはもとより子供向けのアニメの中でまでも。 少なくとも、そこで何か重大なことが行われていたということは「わかった」。「わかった」と私は思った、何の知識も持たない子供にすぎない私がである。アイデンティティの自明性を保証するものは、必ずしも知識ではない。経験と刷り込みとトラウマが、それに先行する。


1968年東大医学部で、インターン制度に代わる登録医制度に学生が反発し無期限ストに突入した上、医局長軟禁といった「東大紛争」に端を発する学生紛争は、同年3/28には全学連が米軍王子野戦病院へ乱入、同日、東大の卒業式典が中止。経理面での使途不明金20億が発覚した日本大学では5/27日に全学共闘会議が結成され、日大紛争が本格化した。6/15、反日共系学生が東大・安田講堂を占拠した為、学長は学内に機動隊を導入、8/28にはスト派学生が医学部本館を封鎖した。前年10月には佐藤栄作首相の南ベトナムを含む東南アジア歴訪に講議した全学連が新宿駅を占拠し、国電がストップするなど大規模な学生騒乱となった。この闘争で、学生144人が検挙された。東大では学内紛争の責任をとって学長が辞任、同年12月の東大入試は中止となった。翌年1月、学生と機動隊の攻防の末、学生による安田講堂の封鎖が解除され、631人が逮捕された。また、東大闘争支援の学生がカルチェ・ラタン闘争を展開し、お茶の水駅を占拠した。1月には京都大学で全学闘争に突入した。2月には日大にも機動隊が導入され封鎖が解除された。京大は9月に封鎖解除となった。他方、5月には全共闘を支持する大学教師200人が支援報告会を開催した。12月に文部省が発表した大学紛争白書によると紛争校は国立62、公立15、私立47、うち機動隊導入41校であった。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)