事件名
足尾銅山暴動

国 名

日本
年月日 1907年02月04日
詳 細

近代日本の発展を牽引した足尾銅山であるが、同時に深刻な鉱毒事件(これはわが国初の公害である)、労働者による暴動が起こるなど、後世に大きな課題を残した。煙害による被害は一説によると6000haといわれ、周辺の山々や草木の無いなまり色のはげ山となった。現在も、行政や市民ボランティアによる緑化運動が続けられている。明治時代、時の国会議員であった田中正造は、天皇に直訴するなど、鉱毒問題の解決や労働者の待遇改善をもとめ生涯をかけて奔走した。


1907年2月4日足尾銅山の銅山通洞坑内で休息中の採鉱夫と会社職制との口論をきっかけに、採鉱夫900人が待遇改善を要求してダイナマイトを爆発させたことから大暴動となり、7日鎮圧に出動した軍と衝突した。暴動は262人の検挙者を出しこれに関与した大日本労働至議会(1966年10月足尾支部結成)の幹部、東京の平民社と日本社会党幹部、堺利彦・幸徳秋水・石川三四郎等の私宅が捜査された。14日軍隊の引き揚げで事態は収拾された。この暴動に呼応して、2月6日生野銀山のストライキ、7日銚子漁民のストライキも起き、さらに各地の鉱山でのストライキ・暴動が続いた。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)