事件名
湾岸戦争

国 名

イラク
年月日 1991年1月〜2月
詳 細

「湾岸戦争」といえば、深夜のTVに音も無く延々と映し出されていた、緑がかった粗い粒子の画面に光が明滅するテレビゲームのような爆撃の映像と、重油まみれになった水鳥の映像がセットとなり思い出される。「重油まみれ水鳥」の映像は、日本が90億ドル(1兆1700憶円)を多国籍軍に拠出するべきか否かの議論が始まったまさにその時、「イラクがペルシャ湾へ原油放出をした」として米から各国に配信された。しかし、実際には、米中央軍の当初からの攻撃目標であった「ゲッティ・オイル・カンパニー」の原油貯蔵施設に米軍が誘導爆弾を打ち込んだための原油流出であったことが、テレビ朝日『ザ・スクープ』(1991年8月26日放送)の取材により明らかになった。米中央軍も、この事実を取材班に対して認めている。
 当時、日本は、多国籍軍に90億ドル(1兆1700憶円)の資金提供(名目は湾岸アラブ諸国協力理事会に設けられた湾岸平和基金に対してであり、「平和に対する貢献」だった)をした。さらにその後、「円安で提供された資金が目減りした」とする米国からの「補てん」要求にも応え、日本政府は「クルド難民支援」という新たな名目で、5億ドル(696億5千万円)を米国一国に全額支払っている。日本政府は、多国籍軍に支払った90億ドルは「戦費では無い」と国会で繰り返し答弁していたが、ベーカー国務長官は「日本からの90億ドルは我々が日本政府に頼んだもの。湾岸戦争における米軍の戦費に当てる。」と 91年1月26日 に声明を発表している。
 湾岸戦争で主力兵器として多用されていたクラスター爆弾(CBU-87型)は、単価が40,000ドル(560万円)である。湾岸戦争では10,035発が使用されており、約560億円がクラスター爆弾に費やされたことになる。クラスター爆弾は集束爆弾の一種で、地表近くで炸裂し、その胴体部分に内蔵されている202個の子爆弾を400m×200mの範囲にまき散らす。子爆弾は散布後直ちに爆発し、無数の金属片を飛散させ、周囲の車両をずたずたに引き裂き、人間を肉片に変える。また、小爆弾には数パーセントの割合で不発弾があるため、被爆撃地域の不発弾処理を非常に厄介なものにする。このタイプの爆弾の使用は、ベトナム戦争に始まり、湾岸戦争以降も、ユーゴ・コソボ空爆、昨年から続いているアフガニスタン空爆でも使われている。
 クラスター爆弾は、1996年の国連人権委員会の決議において、核兵器、劣化ウラン、生物化学兵器等と並んで、非人道兵器として使用禁止の対象に挙げられている。この時、アメリカ一国のみが反対側にまわっている。


1990年11月の国連決議で撤退期限が1991年1月15日とされたにも関わらず、イラクがそれを無視した為、1991年1月17日、米軍を中心に多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争となった。2月15日、イラクは条件付きでクウェート撤退を声明したが、米国は拒否した。ソ連の仲介による撤退合意も米国が拒否し、24日多国籍軍が地上戦に突入した。26日フセイン・イラク大統領はクウェートからの撤退を命令し、28日戦闘停止命令を下した。国連安全保障理事会は4月恒久停戦決議を採択し、その中で武器禁輸措置を決めた。29日、イラクは凍結海外資産のうち約10億ドルの解除による緊急物資の輸入を要望し、5月の委員会は対象国の裁量で解除できると決定した。しかし同委員会は6月、停戦決議の遵守を検討し、経済制裁の解除緩和は見送った。12日の制裁委員会はイラクが要請した37億ドルの凍結海外資産を各国の裁量に委ねるとしたが、7月の先進国首脳会議で、イラクが国連決議を完全に履行するまで経済制裁は履行することを認識した。イラクは1997年、クウェートの主権を認めた。
(浦野起央編著『20世紀世界紛争事典』三省堂(2000年)より抜粋)